愛の定義の崩壊のさきにあった深い許し
一斉LOVING【イノセントフロンティア】を受けて思ったこと
「愛とはこういうもの」という自分の中の決めつけがあればあるほど、
人や自分に対する制限とジャッジを生む。
あやさんは「全てが愛」といつもおっしゃっているが、それを聞いて頭で理解する(わかったつもりになる)
ことと、その状態を生きることは当たり前だけど全く違う。
最近あるきっかけで「ああ、こういう時に自分は、他人に共感や理解を求めるんだなぁ」と思い知ることがあった。
相手がわかってくれないことにも、自分がうまく伝えられないことにもがっかりして
「どうせわかってもらえないんだ」と子どものように拗ねたくなる。
自分の問題なのがわかっていて、感情的にはとてもしんどかったけど
そんな風に反応する自分を静かに観察するもう一人の自分もいて・・・。
「こういう時にはこうなっちゃうんだねー!あらら⤵(+_+)」みたいな感じ。
そんなことがあってすぐ迎えた、あやさんのLOVINGメーカー開発研究会当日。
その中で、
「私がしんどかったのは、愛と理解、愛と共感を混同していたから。そして、その混同ゆえに理解や共感がないと
愛がない!と自動的に紐づけしてしまうからだ」と気づかせていただき、号泣😭
人のことを100%理解することはできないし、相手に理解や共感を求めるのもムリな話だと
わかっていたつもりだったのに、愛=理解、愛=共感という観念(定義)が、自分の中にあったがために
『理解してもらえない=愛されていない=他人のせい』
『理解できない=愛せていない=自分のせい』 となり
どちらのバージョンでも結局とても悲しいという残念な結末に・・・苦笑
そして、その経験の積み重ねで、「人からはどうせわかってもらえない」と拗ねて、逃げることを覚え
傷つくことが怖くて、最初から諦めを前提にしたコミニュケーションを繰り返してきたんだなぁと。
でも、【イノセントフロンティア】の施術を受けることによって
「わかりあいたい」という想いの根底にあったのは、「愛し合いたい」という願いだったとわかり、
自分の中に深い許しが拡がった。
「わかってもらうことを望むのは自分の欠乏意識によるニーズに過ぎない」と思ってきたけれど
実はただいつでも、愛し合いたい、愛を感じていたいと願っていたのだと思うと、どんな時の自分も愛おしく感じる。
「なあんだ。いつだって精いっぱい愛していたし、愛されていたんだなぁ。」と。
これからも、私のどこかに隠れている「愛=○○」という定義が崩壊を続けていくのだろうが、
それはきっと、「全てが愛」だとわかっていくことに繋がるのだと思うと、ちょっとたのしみにすらなる。
『ビバ!定義崩壊』 かも?(笑)
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