純度の高い感情表現って美しい純度の高い感情表現って美しい(ポジティブもネガティブも関係ない)

昨日、友人からぽーんと
「すごく悔しい!」という突然のメッセージが届きました。

「んっ?どうしたんだろう?」と思って

次なるメッセージを見てみると
先日、彼女が出演した舞台の配信用動画の一場面がうまく撮れていなかったことに対する悔しさのメッセージでした。

(それは、彼女が衣装を丁寧に選び、
自分の思いをセリフに込めて演じた大切なシーン。
しかも、やり直しの効かない一回限りの舞台なので、その悔しさは想像できます)

 

彼女の許可を得て、以下一部抜粋します↓

「すごく悔しい!」
「それがなかったのがホントに悔しい‼️
悔しさはエネルギーでそれが次の望みにつながる、のもわかってるからこの悔しさをガッツリ味わう!」
「ホントに悔しい」

 

このメッセージを読んだ瞬間に
「あぁー、そうなんだ…」という
起こった出来事に対する残念な気持ちと同時に私が感じたものは

「うわー、なんて純粋な悔しさなんだろう!」という感嘆の気持ちと

彼女の放っている
余分なものが何も乗っていない
純度が高い感情=エネルギーの
美しさでした。

 

自分の望まない何かが起こった時
それを誰かのせいにして
自分を被害者にしたりも出来るけど

彼女はそんなことに全く興味はなく
自分が今この瞬間に感じている
「自分の内側の悔しさ」にしか
フォーカスしていない。

 

自分の感情の責任は全て自分にあることをよく知っている人だから
他責して誰かにその感情を投げつけるとかそういう立ち位置にも立たない。

 

ただ純粋に大きな悔しさの中にいて
(とても苦しいだろうけど)
逃げずにそれを味わっている。

そして、シンプルにその事実を
伝えてきているだけ。

状況を長々と説明したりもなければ
自分の気持ちをわかってほしいという
エネルギーもない。

もちろん、自分の感情へのジャッジもない。

 

一見ネガティブに見える感情も
発した人が放出しているエネルギー次第で

受け止めるほうの感じ方もこんなに違うのだなぁと思いました。

話自体は重くなってもいいことなのに
ここから感じるエネルギーのなんと軽やかなことか…。

 

今この瞬間の自分の感情を、ただ感じる。

そして表現したければする。
でも、そこに何も込めない。
何も乗せない。

大事なのは、この純度。
「ただそうである」というこのクリアな感じ。

 

ポジティブな感情だろうと
ネガティブな感情だろうと
そのどちらにも「いい、悪い」はない。

 

だから、いつでもありのままに

感じることも表現することも自分に許していい。

 

純度の高い感情表現の美しさというものを

しみじみと感じた出来事でした。

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