身につけた「生き方(型)」の守破離

私は読書が好きなのですが

特に最近のお気に入りなのが

江戸時代を舞台にした小説です。

 

図書館で借りてきては
ワクワクとページをめくるのですが

先日読んだあさのあつこさんの
『地に滾る』という小説に
こんな一節がありました。

「藤士郎は、剣も性質(たち)も硬すぎるのだ」

「硬いとは?」

「自分で自分の剣を型にはめてしまうんだ。こう打ちかかられたこう防ぎ、防いだ後にこう退いて攻撃する。みんな型にそっている。それはそれで見事なのだが」

「型を知らずして上達はあるまい」

「ある程度まではな。しかし、程度を超えれば自分を型に合わすのではなく、自在に型を作っていかねばならんだろう。いつまでも型に囚われていると、窮屈になる。頭がつかえるんだ。箱の中で麦を育てるようなものだ」

「伸びるためには、箱を破らねばならんということか」

「そうだ」

これは剣について
主人公が友人と語り合う場面なのですが
この部分を読んで

「型の守破離ってことか…。
この話って、人生(生き方)にも
通じるなぁ」と
しばし感じ入りました。

そう言えば
武術など何かを究める場合に
「守破離」という言葉を使うなと思い
ネットでその意味を調べてみると…

* 守:支援のもとに作業を遂行できる(半人前)。 ~ 自律的に作業を遂行できる(1人前)。
* 破:作業を分析し改善・改良できる(1.5人前)。

* 離:新たな知識(技術)を開発できる(創造者)。

例(落語)
* 守:古典落語を忠実に表現することができる。
* 破:古典落語をより面白くアレンジすることができる、あるいはよりわかりやすく表現することができる。
* 離:経験を活かし新作落語を作ることができる。あるいは、落語から進化した新たな芸風を作ることができる。

(以上、ウィキペディアから引用)

と、ありました。

(この

:新たな知識(技術)を開発(創造者)

という部分に「離の段階は創造者なのね」と、なんだかグッときてしまいました😍)

私たちは、物心ついた頃から
生きていくための「型」を教わります。

「こういう場合はこうすべき」 とか

「人とはこうあるべき」 とか

 

(これってなんだか

それぞれが一つの型みたいですよね?)

たぶん私たちは
言葉や態度からだけではなく
エネルギーとしても
「こうすべし」という型を
たくさん受け取って

生きていくために
それを活用するようになるのだと
思います。

そして
その繰り返しの中でいつの間にか

型と自分が一体化してしまって

型を守って生きることが

当たり前になってしまう。

もちろん
型が有効だったこともあるだろうし
型があるのが悪いわけでもありません。

でも

育った環境の中で一体化した型が

 

今の自分に

本当に合っているものなのか

 

これからの自分を幸せにするものなのかどうかを

自分に問うてみることも

時には必要なのではないかと

思います。

 

型を覚えて型を使う。
その型がすごく役立っていて
楽しく幸せに生きられるなら
それでいい。

 

でも
今の自分にとってしっくりこない。
同意出来ない(したくない)

まるで本来の自分ではなく
誰かの人生に沿って
生きている気がする。

そんな感覚をなんとなく感じるなら

今まで持っていた型も

サイズの合わなくなった服を替えていくように

どんどん手放していっていい。

型に無理矢理自分を合わせる必要なんてない。

そう思います。

自分の人生(生き方)を創れるのは
自分だけ。

自分に何が有効(しっくりくる)かがわかるのも

自分だけです。

 

たった一つの正解なんて
どこにもないのだから
生き方や在り方も
今の自分にしっくりくるように

守から破(分析し改善・改良)
そして離(新たな知識(技術)を開発=創造者)

をしていけば良いのだと
思います。

 

時には

怖くなったり

迷ったりすることもあるでしょうが

 

私も事あるごとに自分に問い続けながら

変化し続けることを
常に自分に許可しながら

既存の型に捉われない人生を
創造していきたいと思っています。

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